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【岩手】アテルイ処刑後 蝦夷の地位向上 「蝦夷の協力を得て東北各地を統治する穏健な政策が採用された」


2018/08/12 19:12

土塀に囲まれた志波城には、兵士が駐在したとみられる竪穴住居があった(盛岡市で)
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「延暦8年の戦い」の構図
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蝦夷と朝廷による主な争いとアテルイ
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政策転換 各郡の郡司に

 の名を後世に知らしめたのは、延暦8年(789年)に胆沢(現奥州市)で繰り広げられた朝廷軍との戦いだ。

 約5万2800人を多賀城に集めた朝廷側は、胆沢を攻めた6000人のうち戦死者25人、負傷者245人、溺死者1036人を出したが、約1500人で勝った蝦夷(えみし)側の被害は少なかった。「アテルイ率いる蝦夷の卓越した戦術のたまもの」。元奥州市埋蔵文化財調査センター所長の伊藤博幸さん(70)は語る。

 朝廷軍は3隊に分かれて北上川の両岸を北上。西岸を進む前軍が先回りして川を渡り、東岸の2隊と共に敵を挟み撃ちにする作戦だったが、山に潜んでいた蝦夷軍の急襲に遭い、多くの兵士が川に逃げて命を落とした。地の利を生かした蝦夷軍の大勝利だった。

                 ◇

 敗戦に衝撃を受けた桓武天皇は、蝦夷平定に新体制を敷く。その一人が、アテルイのライバルとなる坂上田村麻呂だ。延暦13年(794年)、前回の2倍となる10万人の兵を送り込む。この年は平安京遷都の年で、負けは許されない。「首四百五十七級を斬り……落(村落)七十五処を焼く」。徹底的な焼土作戦だったと朝廷側の報告に残る。

 7年後の延暦20年(801年)、再び約4万人が攻め込むと、翌年、アテルイは降伏。10年余で20万人の大軍を相手にした蝦夷の指導者の戦いが終わった。田村麻呂がアテルイの能力を認め、朝廷に助命を願ったのは知られた話だ。そのカリスマ性は東北支配に役立つと考えた。「奥地に放還すれば、所謂(いわゆる)虎を養ひて患(うれい)を遺(のこ)すならむ」。虎のように危険な人物を生かしておけない。公卿らの判断で、現在の大阪府で処刑された。

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 アテルイの死は何を残したのか。その一つが、田村麻呂が803年に蝦夷政策の最前線基地として造った志波城跡(盛岡市)で見つかった。

 さらなる征夷の拠点とみられてきた城には、兵士が駐在した1000棟以上の竪穴住居があり、かまどの形は蝦夷、関東系の2種類が確認された。敵対していた蝦夷と関東の兵が、戦後、共に活動していたとみられる証左だ。

 背景に政策の転換がある。桓武天皇は805年、蝦夷征伐の終結を宣言。以降、蝦夷の有力者が東北各郡の郡司に任命された。「蝦夷の協力を得て東北各地を統治する穏健な政策が採用された」と伊藤さん。アテルイの犠牲が、蝦夷の地位向上につながっている。

 志波城は川の氾濫により約10年で廃絶。812年に造られた徳丹城(矢巾町)では兵の配置が停止され、軍事的緊張は薄らいだ。814年、嵯峨天皇が発した勅は「夷俘(いふ)と号すること莫(な)かるべし」。蝦夷を差別するなという意味だ。それはアテルイが目指した境地だったのだろう。

読売新聞 2018年08月09日
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